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岩田榮吉の作品

 人物点描
  オルドゥネール通りから(その1 モンマルトル界隈のこと)


岩田が30歳代後半から終生拠点としたパリ市18区、オルドゥネール通り189番地。パリ市内でも最北部、モンマルトルの丘の北側です。モンマルトルと言えば、ピサロ、モディリアニ、ピカソなどが居住し制作した「芸術家の街」のイメージですが、彼らにしても、19世紀半ばの「パリ大改造」で中心部の住居を追い出されたり、家賃の安さに惹かれてきた外国人貧乏画家だったり…ということで、つまりは「庶民の街」の色濃い一帯です。

岩田と同じアトリエ村「モンマルトル・オ・ザルティスト」(1933年築)に、戦争中の一時期を除き戦前戦後にわたって拠点を置いた画家・荻須高徳によれば、戦後早々に戻ってみると、近所の商店のおやじさんもマダムもみな多少は老けていたが戦前と少しも変わっていない(人物点描〜アトリエ その1 参照)。もちろん何一つ変わっていないということではなく、その暮らしぶり、人々の日常の醸し出す雰囲気がそのままということでしょう。

とはいえ、戦争はここにも大きな影を落としていました。ユダヤ人女性哲学者サラ・コフマン(1934〜1994)の自伝的著作『オルドネル通り、ラバ通り』(邦訳庄田常勝、1995年未知谷刊)には、この界隈に住んでいた彼女一家の苛酷な時代が語られています。彼女は近所のフランス人女性にかくまわれて何とか戦後を迎えますが、そうした不幸な面をも含めて、そこでの暮らしはとても人間的なものであったことが窺われます。

ロベール・サバティエ(1923〜2012)の『ラバ通りの人びと』(邦訳堀内紅子ほか、2005年福音館文庫)も1930年代のこの界隈を舞台にした自伝的小説ですが、その解説(ジャン=クリスチャン・ブーヴィエ)によれば、作中にあるような街の性格は、戦争によっても大きく変わらなかったが、1960年代に消費社会が到来し冷蔵庫・テレビ・自家用車が普及し始めたことに加え、周辺部郊外の開発が進んで、失われていったということです。

岩田のオルドゥネール通り時代は、まさにその失われつつあった頃に重なります。1968年の「五月革命」にはほとんど関心を寄せなかった岩田でしたが(人物点描〜タバコとコーヒーさえあれば 参照)、日々外出の行き帰りに界隈を歩き、時には海外からの来客を案内して徒歩30分ほどのモンマルトルの丘まで足を延ばす中で、失われゆくものを敏感に感じ取っていたのではないでしょうか。


モンマルトル テルトル広場付近の路上にて
モンマルトル テルトル広場付近の路上にて
(似顔絵描きの作品を見る岩田/撮影年不詳)




近年も変わらぬモンマルトル路上風景


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