岩田榮吉の人物と経歴
人物点描
長年の画友・塚原堯
その日、1969年4月7日月曜日の午後、岩田はオルドゥネール通りの自身のアトリエで彼を待っていました。ともに食事に行く約束でした。そして…「
午後の四時過ぎ、私のところをノックする人がいる。(*彼と)共通の友人のN氏だった。N氏は、いきなり<午後三時のニュースを聞いたか>と言った。<法務大臣・ルネ・キャピタン氏の婿、塚原氏がベランコンブルの近郊で自動車事故のため…>と云う、あまりにも恐ろしい知らせだった。」
夭折した塚原 堯(つかはら・たかし 1932-1969)と岩田は、芸大専攻科伊藤廉教室でイーゼルを並べ(1955-57)、相次いでフランス政府給費留学生として渡仏、同じ「日本館」の屋根の下で暮し(1958-59)、各々パリで描き続ける途を選んでからも交流が続きました。「
塚原君とは、彼の結婚の前も後も、パリ滞在期間全体を通じて非常に頻繁に行き来があった。彼が私の家に来て絵を見てくれる時、何も言われなくとも、彼の考えている事がすぐこちらに通じた。私が彼の絵を見る時も全く同じだとプチ(*塚原の愛称)は言っていた。」
さらに、「
私達がはじめて<テール・ラティーヌ>(*フランスの団体展)に招ばれた時(1962年頃)、或る朝、彼が興奮して私のところに飛んで来た。プチが懐から大事そうに取り出したのは、その日のフィガロ紙の切り抜きで、ジャニンヌ・ヴァルノーの批評に二人の名前が載っていたのである。これを朝一番に私のところに見せに来てくれたプチ、その時の彼の嬉しそうな顔は今でも目に見える様である。」
塚原の作品、とくに1960年代中ごろ以降の作品を見ると、基本的な画想と取上げるモチーフが岩田の作品とかなり近い関係にあることは明らかです。長年影響しあってきたからこそではありますが、二人を共に知る留学生仲間の渡邊守章によれば、「
最良の友でありライヴァルであった」が、「
芸大の伊藤教室の同僚というほかには、気質も画風も正反対」だったということです。
塚原 堯 《運命》 1968年 油彩/キャンバス
岩田の塚原評は、「
形よりも先ず調子と色の深みを、構図よりも<対象に直結した自分の表現したい気持ち>を常に大切にしていた」との言に要約されています。謡曲と仕舞に加えて和歌を習い育った塚原は、「伝統」の重みを十分体得していたからこそ、西洋絵画の伝統に向きあっても過度に縛られることなく、現代のフランスで絵を描
く意味を見出したいという気持ちがあった…ということでしょうか。
―(引用はすべて塚原堯画文集刊行会「塚原堯の追憶」1974年所収の寄稿から。*印は引用者注記)
1963年テール・ラティーヌ展(パリ市近代美術館)の図録表紙
画像の掲載はないものの、塚原・岩田二人の名前が出品者欄にある。
(上記引用文中、初めて招待出品したのが1962年頃とされているが、
1962年の図録には記載がないので、正しくは1963年と思われる。)
二人がともに出品した1967年コンパレゾン展(パリ市近代美術館)の図録表紙
と画像掲載ページ(左下:岩田、右上:塚原)。