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岩田榮吉の人物と経歴

 人物点描
  一時帰国のたのしみ



1957年、28歳で渡仏し、終生パリで制作した岩田ですが、個展の準備・開催、母校東京藝術大学での講義などのため、1969年から1977年の間に4回ほどの一時帰国をしています。その際滞在したのは、横浜本牧にあった姉の嫁ぎ先(現在、横浜本牧絵画館のある場所)でした。そこには岩田のたのしみにしていたことがいくつかあったようです。

そのひとつは、好物の納豆を口にすることができることでした。近年ではフランスでフランス人がフランス産の大豆から作る「本物の納豆(商品名『ドラゴン納豆』など)」が販売されるまでになっており、パリ市内のいくつかの日本食材店には日本製の納豆も並んでいるようですが、当時はまだ入手至難だったのです。今日パリの日本食材店として「老舗」と言われる「KIOKO」でさえ、1974年開店ですから、当時のパリで納豆にはまずお目にかかれなかったといっていいでしょう。

そしてもうひとつのたのしみは、テレビの時代劇を見ることでした。岩田が渡仏するまで、時代劇といえば映画館で見るものでしたが、1964年の東京オリンピックを契機にテレビが普及し、様相が変わっていきます。映画時代劇制作に携わっていた監督・スタッフのテレビ進出もみられ、1960年代後半から、「水戸黄門」、「銭形平次」、「木枯し紋次郎」、「座頭市」など後々に続く時代劇シリーズが始まり、人気を博します。岩田が一時帰国した時期はちょうどこの頃にあたります。

しかしテレビ時代劇はこの後、急速に陳腐化します。「定番シーン」、「決め台詞」が盛り込まれて進行が標準化され、役者の新たな魅力を引出すよりは「スターイメージ」を定着させる役作りが重視され、先端表現の追求や現代の社会問題の反映は顧みられなくなります。低コストでたくさんの本数を制作しなければならなくなったための当然の帰結でもあるのですが、その予兆を岩田自身感じ取っていたかもしれません。自らの属する美術・絵画の世界に引き比べて。


旧須藤家長屋門の一角にあった部屋 外観
旧須藤家長屋門の一角にあった部屋 外観
(岩田が一時帰国した際に滞在した)



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