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岩田榮吉の人物と経歴

 人物点描
  パリ 1960年頃の生活費


1960年、留学を修了した岩田はパリを拠点に自力で絵を描き続ける決意を固めましたが、その基盤となる収支の見込みは大変厳しいものでした。前提とする暮らしぶりにより、月々の必要経費はどの程度だったのでしょうか。岩田は、小遣い帳の類のものを残していませんが、その時代、同じような立場・環境にあった日本人の著作(片瀬貴文「1961年のパリだより」2009年 メディアイランド刊)の記載とあわせ、およその様子を窺ってみます。

この著者は1930年生れ、国鉄で全国の新幹線計画・設計・建設に従事した技術者です。岩田より1歳年下で、技術研修のため1961年に渡仏し、岩田と入れ替わりのタイミングで日本館に入ります。この本は家族への私信を中心に、当時のものの値段についての記述が頻繁に出てきます。岩田の書簡などの断片的な記載も参照し、下表に取りまとめてみました。

1960年頃 単身者のパリ生活に関わる物価の目安
1960年頃 単身者のパリ生活に関わる物価の目安
注1:片瀬貴文「1961年のパリだより」及び岩田書簡等を参考に筆者作成。
注2:金額単位NFは、新フラン。1960年1月のデノミネーションで旧100フラン=新1フランとなった。
注3:岩田愛用の煙草は「ゴロワーズ」。「ジタン」と人気を二分する。
注4:衣類については適切な指標がないが、「日本の2~3倍はする」(片瀬)。

以上から、2つのケースを考えてみます。
(1)日本館に入居し、1日3食を国際大学都市(シテ)内の食堂ですませ、タバコを1日)半箱、その他30フランとすると、所要月額は約200フラン。
(2)市中のアパートを借り、1日2食を自室・1食を市中、タバコを1日半箱、その他30フランとすると、所要月額は約450フラン。
(1)は日本館で「つましく」暮らす場合、(2)は市中で同程度の暮らしをする場合ですが、それでも日本館を出ると所要金額は2倍以上になります。(2)は当初岩田が見積もった希望額(人物点描~日本館時代~転機(その3) 参照)と同額ですが、衣料代や画材費を考えると、かなり厳しいレベルです。

しかも、岩田が実際に得た働き口で見込める収入月額は約350フランでした。勤務先負担の会食が時々あるにしても、これでは不足です。いずれは絵を売るとしても、何とかやっていくには、第3のケースを考えなければなりません。そこで、
(3)市中のアパートは同様の事情を抱えた人と1室をシェアし、1か月のうち半分は3食とも自室ですませる(他の日は1食市中)ことにすると、所要月額は約350フラン。
実際、モンマルトルのパリ市営アトリエ村に移るまでの一時期、岩田はルームシェアで凌いでいましたから、ほぼこのくらいの生活であったと思われます。


高級食材店「ルノートル」の店舗

参考写真:高級食材店「ルノートル」の店舗。こうした高級店でなくとも、街中のブーランジェリー(パン屋)やブーシュリー(肉屋)で手頃な惣菜が一人分でも買える。

ちなみに、「ルノートル」は1979年、東京池袋の西武百貨店内を皮切りに日本進出したが、岩田は同百貨店のパリ事務所でそのための契約締結に関わっている。


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