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岩田榮吉の作品

 人物点描
  風景画封印の「謎」


作品《パリの街角》は、永らく風景を描いていなかった岩田が20数年ぶりに描いた風景小品です(作品点描〜《パリの街角》 参照)。岩田は、学生時代から渡仏直後のころまでは、相当数の風景画を描いていた(人物点描〜日本館時代〜転機(その1) 参照)のですが、日本館を出たころから《パリの街角》まで20数年の間、なぜか描いていません。渡仏直後のオランダ旅行でヨハネス・フェルメールの《デルフトの眺望》に対面し、あれほど感動していたにもかかわらず(人物点描〜1957年暮のオランダ旅行(その3 マウリッツハイス〜デルフト) 参照)。

岩田はなぜ風景を描かなくなったか、留学生仲間で文学者の渡邊守章は「幻惑からの覚醒」説です。つまり、パリという都市には外国人に及ぼす妖しい幻惑力があり、誰しもその虜になる時期があるという訳です。とすれば、20数年を経て《パリの街角》を描く動機は幾分センチメンタルな懐旧の念ということでしょうか。確かに《パリの街角》画中にたたずむ人にはそうした風情も感じられます。

なぜ風景を描かなくなったか、岩田自身が語る理由は制作プロセスに由来します。現場でのスケッチを持帰り、アトリエでキャンバスに向き合うスタイルでは、どうしても「風景と絵の間に隙間ができてしまい」ます。そして、それならば…と取組んだ静物では、「自分がどのように絵に突っ込んでいけばよいか、何か気持ちの中ではっきり整理されて、確かに静物をやることが私の進むべき道ではないかと解ってきた」のです。(画集所収・語録より)

これをどう理解すればよいでしょうか。隙間ができてしまうことが問題だとすると、現場にキャンバスを持ち出すやり方もあるはずですし、20数年を経てあえて進むべき道を逸れることもないはずです。言葉通りのことで、風景を描くことを断念してしまうものなのか、納得し難いものが残ります。しかし、岩田が語っているのは、一般の風景あるいは風景画についてではないのかもしれません。

現場でのスケッチを持帰り、アトリエでキャンバスに向き合うスタイルでは、《デルフトの眺望》に迫ることはできない…岩田の真意はここにあるのではないでしょうか。フェルメールとほぼ同時代のオランダに、ヤーコプ・ファン・ロイスダール(Jacob van Ruisdael、1628年頃〜1675年)という著名な風景画家がいますが、その作品と比べてみると、《デルフトの眺望》では景観の構成要素が静物画のオブジェやそれらの置かれた空間のように扱われていることがわかります。

岩田は《デルフトの眺望》ひいてはフェルメールへの深い理解の上に、風景を題材とすることを一旦封印したのではないでしょうか。とすれば、20数年の静物画探求の後にその封印が解かれ、実現すべき構想に向かう習作が《パリの街角》ということになります。それは画家として自分を育んでくれたパリないしモンマルトルへのオマージュでしょうか、せめてもう1年の寿命があれば、岩田生涯の代表作を今日見ることができたに違いありません。


《横浜山手》 1951〜57年
《横浜山手》 1951〜57年
(画集No.4)芸大時代の「風景」


《Paysage》 1958年
《Paysage》 1958年
(画集No.13)渡仏直後の「風景」



ヨハネス・フェルメール《デルフトの眺望》1659〜60年 油彩/キャンバス 97cm×118cm マウリッツハイス美術館
ヨハネス・フェルメール《デルフトの眺望》1659〜60年
油彩/キャンバス 97cm×118cm マウリッツハイス美術館



ヤーコプ・ファン・ロイスダール《漂白場のあるハールレムの風景》1670〜75年頃 55.5cm×62cm マウリッツハイス美術館
ヤーコプ・ファン・ロイスダール《漂白場のあるハールレムの風景》1670〜75年頃
55.5cm×62cm マウリッツハイス美術館



ロイスダール《漂白場のあるハールレムの風景》 部分拡大
ロイスダール《漂白場のあるハールレムの風景》 部分拡大


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